夕刻の鐘が椿京の街に響く頃、私は理玖の書斎へ向かった。曾祖母の遺品を風呂敷に包み、胸に抱えながら長い廊下を歩く。普段なら理玖との接触を避けがちな私にとって、自分から彼を訪ねるのは初めてのことだった。
書斎の前で足を止め、私は深く息を吸った。襖の向こうから聞こえる筆の音が、理玖が書斎仕事をしていることを示している。恐る恐るドアをノックする。
「朝霞様、お忙しい中失礼いたします」
「何か用ですか?」
ドア越しに聞こえる理玖の声は、いつもの通り静かで冷静だった。私はドアを開け、頭を下げる。
「お時間をいただけますでしょうか。お話ししたいことがございます」
理玖は筆を置き、私を見た。私が抱えている風呂敷包みに視線を移すと、僅かに眉を顰める。
「珍しいですね。鈴凪さんの方からこんな風に訪ねてくるとは思いませんでした」
「すみません……実は、曾祖母の遺品を整理しておりまして」
私は風呂敷を解き、手紙の束を取り出した。褪色した封筒に書かれた「朝霞理玖」の文字が、夕日に照らされて浮かび上がる。
「これを見つけたのです」
理玖の表情が一瞬にして変わった。普段の冷静さが嘘のように崩れ、まるで何か大切なものを失くしたような、遠い目をする。手紙を見つめる理玖の瞳には、私が今まで見たことのない感情が宿って見える。
「それは……」
消え入るような声で、理玖は手紙に手を伸ばしかけて、途中で止めた。
「鈴凪さんの曾祖母……ちとよは、ここを辞めた後、確かに何度か手紙のやり取りをしていました」
「辞めた後でも
私は溢れる涙が止まらないまま、抑えきれない感情をすべて口にした。「最初は契約結婚だと思っていました。お互いに割り切った関係で、一年で終わるものだと。それなら、私も心の準備ができました。でも、これは違います。私は最初から私として見られていなかった。朝霞様にとって私は、失った恋人の代替品でしかなかった」「鈴凪、それは誤解だ」 理玖は否定するけれど、つい今しがた、身代わりかと聞いた私にはっきりと『そうだ』と答えた。それは誤解などではない、理玖の本当の思いじゃないのだろうか。「誤解?」 私は振り返り、涙を流しながらも毅然として見えるように、しっかりと理玖を見つめた。「では、聞かせてください。朝霞様が私の名前を呼んでくださる時、傷つけたくないと仰ってくださった時、優しい言葉をかけてくださった時、本当に私を見ていたのですか」 私の問いかけに、理玖は答えなかった。空を見つめる目は、どこか遠くを見ているように感じる。「答えてください。一度でもいいから、朝霞様が私自身を見てくれたことがあったのですか」 理玖は苦しげに目を閉じた。一言も発することなく、ただ俯いている。「なかった……ということなのですね……」 私は理玖の沈黙を答えとして受け取った。空はもう明け方近く、わずかに白み始めている。結局、一睡もできないままで、私は心だけでなく体も疲弊していた。「鈴凪……」「私は、百合様ではありません。私は鈴凪という、どこにでもいる普通の女です。美しくもなければ、特別な才能があるわけでもない。ただ、少しばかり頑固で、思ったことをそのまま口にしてしまう、そんな女です」
理玖が屋敷へと向かいかけた時、私は思わず引き留めた。「待ってください」 月光の下で振り返った理玖の表情は、寂しさの影を落としている。「もう少し……百合様とのことを、教えてください」 理玖の足が止まった。その名前を口にされることを、どこか覚悟していたかのように眉をひそめている。「聞きたいのか。辛い話になるが」 理玖の言葉に私は頷いた。「はい。私は何も知らないまま、これから半年以上もの間、朝霞様の隣にいるのでしょうか。それでは、あまりにも……」 私の言葉は最後まで続かなかったけれど、その想いは理玖に届いていたようだった。理玖は深い溜息をついて、再び中庭の中央に戻った。池のほとりの石に腰を下ろし、月を見上げる。「座るといい。長い話になる」 私は理玖から少し離れた場所に座った。石灯籠の影が二人の間に落ちている。「水無月百合……私が唯一愛した人間だった」 理玖の声に、深い愛おしさと同じだけの悲しみが込められていた。「今から百五十年以上も前のことだ。私は人間の姿で椿京の街を歩いていた。妖として生きることに疲れ、人間の世界に憧れを抱いていた頃だった」 私は何も言えずに、ただ耳を傾けていた。「桜の季節だった。狐燈坂の九十九段を上がった神社で、巫女として勤めていた。それが百合だった」 理玖は当時のことを思い出しているのか、空を見上げてから目を閉じた。&nbs
部屋に戻ってから、どれほど時が経っただろうか。 窓の外で夜風が枝を揺らす音に混じって、微かに足音が聞こえてくる。理玖の歩き方だった。その足音は私の部屋の前で止まり、やがて小さく襖を叩く音がした。「鈴凪、起きているか」「はい……」 平静でいようと思うのに声が震えてしまう。理玖の声は先ほどの苦悩に満ちたものとは違い、どこか決意を固めたような響きがあった。そして口調はやはりこれまでのものとは違っている。「中庭に来てくれないか。鈴凪に見せたいものがある」 私は迷った。今夜、これ以上の真実を知るのが怖かった。もう、何も聞きたくないと思っているのに、理玖の声に宿る静かな意志に、断ることができなかった。「わかりました。すぐに参ります」 羽織を直し、私は部屋を出た。理玖は廊下で待っていた。月光に照らされたその横顔は、さっきまでとどこか違って見えた。普段の穏やかさの奥に、何か底知れない深みが宿っているように思えた。 二人は無言で中庭に向かった。朝霞屋敷の中庭は、四季の花々が同時に咲く不思議な場所。桜と梅、菊と牡丹、藤と山茶花が、季節を超えて美しく咲き誇っている。 月は中天に昇り、庭園全体を銀色の光で包んでいた。池の水面が静かに月を映し、石灯籠の影が地面に幽玄な模様を描いている。「美しい夜だ」 理玖は中庭の中央で立ち止まった。「こんな夜にこそ、真実を語るべきなのかもしれない」 私は理玖から少し離れた場所に立った。心臓の鼓動が早くなっているのを感じる。「朝霞様……何を見せてくださるのですか」
深夜の朝霞屋敷は、静寂に包まれていた。私は寝室で布団に横になっていた。天井を見つめながら、浅い眠りと覚醒の境界を彷徨っている。理玖との結婚生活が始まって一カ月余り。未だに井戸で見た映像がふとした瞬間に頭を過る。「眠れない……」 私は諦めて身を起こし、薄い夜着に羽織を重ねて部屋を出た。廊下に足音を響かせないよう、そっと歩を進める。月光が障子を透して、廊下に淡い光の格子を落としていた。 ふと、主座の間の方から低い声が聞こえてきた。理玖の声だった。誰かと話しているのだろうかと思ったが、返事が聞こえない。 鈴凪は戸の影に身を寄せ、息を殺して耳を澄ませた。「百合……」 その名前を聞いた瞬間、鈴凪の心臓が跳ね上がった。あの、月喰いの井戸で見た女性の名前。理玖の口調には深い愛おしさと、同じだけの痛みが込められているように感じた。「もう限界だ。彼女にこれ以上嘘をつき続けることはできない」 理玖の声は普段の穏やかな調子とは違い、苦悩に満ちていた。酒器が畳に置かれる音が、静寂に小さく響く。 私は戸の隙間からそっと中を覗いた。月明かりが差し込む主座の間で、理玖は一人、盃を手に座っていた。その横顔は、私が知る優雅な夫の表情ではなく、まるで長い間重い荷物を背負い続けた旅人のような、深い疲労を湛えていた。「契約だけの関係のはずだった……ちよとの約束のためだけの……」 理玖は月に向かって呟く。「だが、彼女の笑顔を見るたび、あの日々が蘇る。彼女の手に触れるたび、君の温もりを思い出してしまう」 私の胸が締めつけられた。彼
月喰いの井戸を離れ、私はいつの間にか大通りまで戻っていた。心の中には、さっき目にした映像が何度も浮かび、混乱から抜け出せずにいた。 日が傾き始めた空を見上げる。夕刻までに屋敷へ戻らなければ、と思うのに、足取りは重く、時折立ち止まっては深いため息をつく。頭の中では、理玖の苦しげな表情が何度も蘇り、胸を締めつけた。「鈴凪さん」 聞き慣れた声に振り返ると、人混みの向こうから慎吾が歩み寄ってきた。慎吾はいつものように清潔な紺の着物に袴を身に着けており、心配そうな表情で私を見つめている。「慎吾さん……」 私は驚きで声を詰まらせた。今、最も会いたくない人の一人だった。いや、正確には会いたくもあるけれど、会ってはいけない人だった。「お顔の色が優れませんが、体調でも崩されましたか」 慎吾は数歩近づいてきた。その優しい眼差しが、私の心の傷に染みる。彼の前では、いつも素直な自分でいられた。書生時代の思い出が、走馬灯のように頭を駆け巡る。「いえ、その……少し疲れているだけです」 嘘だった。疲れているどころか、自分が何者なのかさえ分からなくなっている。ただ、それを慎吾に言うわけにはいかない。「そうですか」 慎吾は納得していない様子だ。「実は、あれからずっと気になっていたのです。君が朝霞の屋敷で、本当に幸せに過ごされているのか」 その言葉に、私は思わず身を震わせた。慎吾の鋭い洞察力は、昔から変わらない。「朝霞理玖という男について、僕たちが調べたことを話しましたね。しかし、それは氷山の一角に過ぎません」 慎吾の声に、今までにない厳しさが混じった。「慎吾さん、その話はやめてください」「いいえ、言わせてください」 慎吾は一歩踏み出した。「鈴凪さん、もし朝霞のところで辛いことがあるなら、いつでも僕たちが保護します。あなたは一人じゃない」 その言葉が、私の胸に深く刺さった。優しい、本当に優しい人だ。でも、その優しさが今は重荷に感じられる。「朧月会の仲間たちも、君のことを心配しています。我々は、妖に苦しめられる人々を守ることを使命としているのです」「妖に……苦しめられる?」 その言葉に私は顔を上げた。慎吾の表情は真剣そのものだった。「ええ。妖は人間を騙し、利用する存在です。彼らは巧妙に人の心に入り込み、気がついた時には取り返しのつかないことになっている
理玖との会話から一夜明けても、私の胸の奥のもやもやは晴れなかった。朝食も喉を通らず、華が心配そうに声をかけてきても、返事が上の空になってしまう。午後になっても部屋に籠もって縫い物をしていたが、針を持つ手に集中できない。『昔のことは知らぬが仏』 華の言葉が頭の中で繰り返される。なぜ皆、過去のことを隠そうとするのだろう。曾祖母と理玖の関係、そして自分がここにいる本当の理由。答えの見えない疑問が、私の心を締め付けていた。 気がつくと、私は屋敷を出て椿京の街を歩いていた。特に目的地があったわけではない。ただ、屋敷の中にいると息が詰まりそうで、無意識に足が外へ向かったのだ。 石畳の道を歩きながら、私は胸元の銀の鈴に手を当てた。「そういえば……」 ふと、私は足を止めた。以前、華から聞いた話を思い出す。椿京の外れにある「月喰いの井戸」昔から不思議な言い伝えのある場所だと言っていた。 特に理由があったわけではない。ただ、何かに導かれるように、私の足はその方向へ向かった。街の中心部から離れ、人通りも少なくなる。やがて、古い竹林に囲まれた小さな空き地に、石造りの古井戸が見えてきた。 月喰いの井戸は、想像していたよりも古く、風化が進んでいた。井戸の縁には苔が生え、石の表面には細かなひび割れが走っている。しかし、不思議と荒廃した印象はない。むしろ、長い時を経ても尚、何かを静かに見守り続けているような、神秘的な雰囲気を醸し出していた。 私は井戸の縁に手をかけ、そっと中を覗き込んだ。深い井戸の底は見えず、ただ暗闇が広がっている。ところが、水面がかすかに光を反射しているのが分かった。「本当に水があるのね……」 呟いた瞬間、胸の銀の鈴が微かに震えた。驚いて鈴を見ると、まるで何かに共鳴するように、小さな音を立てている。 そして、井戸の水面に変化が起きた。 最初は単なる波紋だと思った。しかし、その波紋が次第に形を成し、やがて映像のようなものが浮かび上がってきた。私は息を呑み、身を乗り出すようにして水面を見つめた。 水面に映ったのは、若い頃の曾祖母の姿だろうか。どこか私に似ている、二十代前半と思われる美しい女性。着物姿で、朝霞家の庭を歩いている。『ちよ、こちらに』 声の主は水面の外にいるが、その声は間違いなく理玖のものだった。現在の理玖よりも若々しく、温かみがある。